Saturday, October 03, 2009

ソフトウェア・デジタル技術は経済における貨幣の発明に相当する

IT部門ほど会社の隅々まで入り込める仕事はないという論調がある。かねてからソフトとビジネスの抜群の相性の良さ、共通する胡散臭さを感じていた身として、腑に落ちる表現だ。実際ウチの職場でも組み込みソフトをやっていた人達が業務システム改革、事業戦略構築に勢力を広げている。
昨今の金融危機について「100年に一度」といった表現がされているが、この100年という数字を単なる言葉のあやだと思っているひとが多いのではないか。実は100年前にもほぼ同じことが起り、社会は疲弊し、その結果としてケインズ学派やシカゴ、オーストリア学派などの経済理論が出てきたり、共産主義思想やヒトラーそれがこうじて二度の世界大戦につながった。今回は更にグローバル化が進んでより多くの要素がからんでいるからやっかいだ。
なぜこんなことを持ち出したかというと100年前の問題はそのまま持ち越されている、いろいろやってみたけど駄目で、そのうちいろんな事が起きているうちに、喉元過ぎれば何とやらで、なんとなくウヤムヤのうちに100年経ってしまっている、というのが本当のところだからだ。ここのところを持ち出すひとがなぜいないのだろう。
貨幣が発明されて経済に持ち込まれたのだが、この人工物は発明者を翻弄しつづけている。同じことがデジタル技術にも言えるのではないだろうか?貨幣が疲弊することのない「絶対価値のようなもの」として地域の間や時間の差を越えた価値の交換--交易(地域)、先物取引(時間)--を可能にした反面、利子という概念を生み出し、世界のGDP、価値創造のかなりな部分を食いつくす悪魔の発明となったように。デジタル技術も疲弊することのない「寸分違わぬ複製」を可能にした利点はともかく、悪魔的な負の可能性があることが、胡散臭さにつながるのではないか。しかもこれら二つの人工物は仲良く共謀してその発明者をやりこめようとしているようにも見える。
こういった人工物に翻弄されるのは世界文明の共通基盤となった、「Rule of Law」、ヒトの外部に裁く「絶対的基準」を置く概念があることも大きい。ビジネスで多用される、同様に砂漠文明的で一神論的な「level playing field」といった平等概念も同罪である。100年前と全く同じあやまりをもう一回いや後数回繰り返していき少しずつ変えていくことでしか、自らの発明物をてなずけられないのが、動物と対して変わりのない我々の限界なのだろう。批判的な視野を持ち、持ち続けること、共感者を増やすことは我々の使命なのではないか。後何回あやまりを繰り返せるかわからないではないので。

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